「安全教育は実施しました。記録もあります」と答えられる企業でも、今回の判決は他人事ではありません。2024年7月31日、大阪地裁は「日本語が理解できない外国人労働者に対して日本語のみの教材で安全教育を行っても、適切に実施したとは言えない」と判断し、約1,000万円の賠償を命じました。製造業・建設業・物流業で外国人を雇用するすべての企業に関わる判決です。この記事では、事案の経緯・判決の論理・現場での対応策を順に押さえます。
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大阪地裁が認定した事故の経緯
事故が起きたのは2015年です。判決まで9年かかりました。なぜ今注目されるかというと、その間に争われた「教育の実質」という論点が、現在の外国人雇用の現場にそのまま当てはまるからです。
被災者は大阪府八尾市の金属加工会社で2014年2月から働いていたベトナム人の男性です。来日間もなく、日本語はほとんど読めず会話も不自由な状態でした。プレス機(金属板を型で打ち抜く機械)の操作を覚えたのは、同国出身の先輩社員による約5分のデモンストレーション(実演)だけ。操作方法が分からなければその先輩に聞く、という非公式な引き継ぎが実態でした。
会社には安全教育を実施した記録が残っていました。しかしその教材はすべて日本語で、ベトナム語の資料はゼロ。「記録があること」と「理解されていること」は別の話だった、というのがこの事案の核心です。(関西労働者安全センター報告より)
2015年1月、男性は工場内でプレス機に指を挟まれ、後遺症を伴う重傷を負いました。その後、損害賠償を求める訴訟に発展し、2024年7月31日の大阪地裁判決を迎えます。
判決の核心——「記録がある」だけでは安全配慮義務を果たせない
ここがポイントなのですが、裁判所が問題にしたのは「教育を実施したかどうか」ではありませんでした。「教育の内容が被災者に確実に伝わっていたか」が問われたのです。
大阪地裁は次の事実を認定しました。
- 安全教育の教材が日本語のみで、日本語を読めない男性には内容を理解できなかった
- プレス機の安全装置(カバーや停止機構)の操作方法と鍵の管理が適切に伝わっていなかった
- 正しい操作方法を教育していれば事故は防げたという因果関係がある
この結果、会社の安全配慮義務違反(労働契約法第5条=使用者が労働者の生命・身体の安全を確保する義務)が認められ、約1,000万円の損害賠償が命じられました。
率直に申し上げると、会社は「教育記録があれば義務を果たした」と判断していたと思われます。しかし裁判所が見ていたのは「その教育は相手に届いていたか」という一点でした。
厚生労働省の指針「外国人労働者に対する安全衛生教育の推進等について」(平成3年基発39号、最終改訂:平成31年3月28日基発0328第28号)は明確に示しています。「当該外国人労働者の母国語等を用いる、視聴覚教材を用いる等、当該外国人労働者がその内容を確実に理解できる方法により行うこと」と。この指針自体は2000年代初頭から存在しており、今回の判決はその法的意義を裁判所が改めて確認したものといえます。
賠償額約1,000万円——労災保険とは別の話
「1,000万円は大企業の話だろう」と感じる方もいるかもしれません。ただ、これは国が支払う労災保険(治療費・休業補償など)とは別に、会社が直接負担する民事賠償の金額です。
民事賠償の主な内訳には次の項目が含まれます。
- 後遺障害逸失利益:後遺症で将来得られなくなる収入の損失分
- 慰謝料:後遺症・入通院による精神的苦痛
- 弁護士費用:訴訟費用の一部
手指に後遺障害が残った場合、年齢が若いほど「将来の収入損失期間」が長くなり賠償額が増えます。今後、同種事案が積み重なれば1,000万円を超える判決は十分に出てきます。金銭的損失に加え、取引先への信用低下といった数字に出ない影響も無視できません。
今回の被告は中小規模の金属加工会社でした。規模に関係なく賠償リスクは存在します。
労災保険は「国が払う保険給付」、民事賠償は「会社が直接払う賠償金」。両方が同時に発生する点が、外国人労働者の労災事案の大きな特徴です。
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波及範囲——プレス機を扱う製造業だけの話ではない
現場の方ならご存知のとおり、日本語が不自由な外国人労働者を機械設備の近くで働かせているのは製造業に限りません。この判決の論理は「操作方法が理解されなければ重大事故につながる業務すべて」に当てはまります。
リスクが高い代表的な業務は次のとおりです。
- 建設業:足場の組立て・解体、高所作業(フルハーネス着用)、玉掛け
- 物流業:フォークリフト操作、荷役・荷崩れ防止
- 製造業:プレス、旋盤、溶接、有機溶剤取扱い
これらはすべて、特別教育(危険有害業務に就く前に事業者が実施義務を負う教育)または雇入れ時教育(労働安全衛生法第59条)の対象です。
2024年(令和6年)の統計では、外国人労働者の死傷千人率(1,000人あたりの労災件数)は2.71。製造業では技能実習生だけで約18万人が就労しており、語学の壁が事故リスクに直結しています。(厚生労働省「令和6年労働災害発生状況」より)
外国人労働者の死傷率は依然として日本人労働者全体より高い水準にあります。この数字の背景に、今回の判決が問うた「言語の壁」があります。
安全配慮義務の法的全体像については「安全配慮義務と外国人労働者——判例から学ぶ「理解できない教育」のリスク」もあわせてご参照ください。
実務上の3つの教訓
この判決を踏まえ、現場責任者・法務・総務が今すぐ点検すべき対策を3点に絞ります。
教訓1:「教育を受けた記録」より「理解した記録」を残す
日付・内容・参加者リストだけでは不十分です。「教育の内容が伝わったこと」を証明できる記録が必要です。母国語で書かれた確認チェックシートへの本人署名、理解度テストの実施と結果保管、実技確認後のサインオフなどが有効な手段です。万一の監督署の調査でも即座に提示できる形にしておく必要があります。
教訓2:日本語のみの教材は今すぐ見直す
厚生労働省の通達が定めているのに、現場ではまだ日本語の教材しかない、という企業は少なくありません。正直なところ、教材の多言語化は「やりたいができていない」リストの上位に入りがちです。とはいえ、この判決の後では「着手できていない」ことのリスクが格段に上がりました。
優先すべき言語は、自社に在籍する外国人労働者の母国語から決めます。ベトナム語・中国語・インドネシア語が、現状の在留外国人構成から見て対応頻度の高い3言語です。
厚生労働省は11言語対応のマンガ教材を無料公開しています(中央労働災害防止協会・JISHA も外国語テキストを提供)。まず使える資料から手を付けてください。
多言語対応の全体設計については「外国人労働者の安全衛生教育 完全ガイド」で詳しく解説しています。
教訓3:「先輩に聞けばいい」は安全体制として機能しない
今回の被災者は、操作の疑問を同国出身の先輩に確認していました。一見すると「困ったときに相談できる環境がある」とも見えます。しかし裁判所はこれを「事業者が直接実施すべき教育の代替にはならない」と判断しました。
非公式の伝達ルートは、その先輩が退職・異動・欠勤した瞬間に消えます。入社直後から、事業者が責任を持って全労働者に対して内容を直接届ける体制こそが、労働安全衛生法が求めるものです。雇入れ時教育の実施と記録の詳細は「雇入れ時安全衛生教育 完全ガイド」をご参照ください。
まとめ
2024年の大阪地裁判決が示した基準は明快です。日本語を理解できない労働者への日本語のみの安全衛生教育は、実施していないも同然——裁判所がそう認定しました。
教育記録が存在するだけでは安全配慮義務(労働契約法第5条)を果たしたことになりません。理解できる言語での教育と、理解を確認した記録の両方がセットです。今日中に自社の教育体制を点検し、日本語のみの教材が残っていれば多言語化の優先順位を上げてください。
よくある質問
Q. 日本語のみの安全衛生教育は、すべて安全配慮義務違反になりますか?
労働者が日本語を十分に理解していれば、日本語での教育で問題ありません。今回問われたのは「日本語を理解できない労働者に対する日本語のみの教育」です。採用時に日本語能力を確認し、理解できることを記録しておくことが重要です。
Q. 通訳者を同席させれば安全配慮義務を果たせますか?
通訳の同席は有効な手段のひとつです。ただし、通訳者の専門用語の正確性を確認すること、通訳が不在の日の代替手段(多言語テキスト・動画教材)も合わせて準備しておくことが必要です。通訳だけに依存する体制は、通訳者の退職・欠勤で一瞬で機能しなくなります。
Q. 今回の判決は技能実習生・特定技能労働者にも適用されますか?
在留資格を問わず、雇用契約がある労働者すべてに安全配慮義務は適用されます。技能実習生・特定技能・日雇い労働者を問いません。育成就労制度(2027年施行予定)でも外国人労働者の権利保護がさらに強化される方向であり、対応が遅れるほどリスクは積み上がります。
Q. 小規模企業でも同様のリスクがありますか?
あります。安全配慮義務は従業員規模に関係なく、すべての事業者に課されます。今回の被告会社も中小規模の金属加工業でした。むしろ、多言語教材の整備体制が整いにくい中小企業ほど注意が必要です。
Q. 厚生労働省の無料多言語教材だけでは不十分ですか?
厚生労働省の多言語マンガ教材(11言語)は無料で活用できる有力な出発点です。ただし、特定機械の操作手順や自社固有の作業リスクまではカバーしきれない場合があります。汎用教材に加えて、自社の作業手順書を母国語で補足するか、業種特化の多言語 eラーニングを組み合わせることで実効性が高まります。



